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1968年 (ちくま新書)
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| ジャンル: | 歴史,日本史,西洋史,世界史
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華青闘告発の行方
1949年生まれ=68年世代の、「日本読書新聞」編集長を務めた文芸評論家が、1968年の課題は「反革命的」に実現したため、我々は未だに「68年」という枠組の中で生きざるを得ないという、懐古趣味的でない見地から、2006年に刊行した本。1968年革命は、スターリン批判による左翼の分裂、豊かさの中での規律訓練体制の動揺、総動員体制としての戦後民主主義体制への批判の高揚を背景として、資本主義の力に依拠することで遂行された、豊かさの中の革命であった。それは第三世界革命に煽られるように、世界的なヴェトナム反戦運動と連動して闘われた。著者がここで、山口健二や共労党に注目して、べ平連をソ連派に支えられた運動と見なしていることは、断罪の意味ではなく政治運動の成否というものを考える上で、重要である。しかし70年7・7華青闘告発は、革命を成就しても解決できない問題として、新左翼自体の差別意識・ナルシシズムを明るみに出すことになり、新左翼運動を多様なマイノリティー運動へとシフトさせた。それは結果として、運動の主体をめぐる迷走や、既存のナショナルな正史への疑義(左右入り乱れ、実践と結びついた裏の日本史運動の分立)をも帰結し、大きな物語の解体につながった。また、7・7によって自己の運動の再検討を迫られた諸党派によって、真剣な革命が模索される中で、内ゲバも生じたと著者は言う。その後、1968年の成果はグローバル資本主義体制の枠内に回収されていき、シニシズムが支配的になったが、それは跳べるはずだが跳べない千尋の谷のようなものだと著者は言う。本書には抽象的な記述が多く、論理を追いにくい部分も多いが、活動家たちの人脈や影響関係が詳しく追究されている点、定説への果敢な挑戦がなされている点で、刺激的な本である。
全共闘世代の人の言う「主体」とは
感想は2点ある。
まず第一点:団塊の世代の人達が言う「主体」というコトバの意味がこの本を読んでよくわかった。「主体性のない態度」などの日常用語にもこれが現れているのだなぁと思って納得したのだが、例えば、他者が「私」と「私の言動」に対して批判として何かを「告発」する。そして、その告発に対して「私」が徹底的に「自己批判」して自分の言動を悔い改めて新たな実践をする。それを繰り返す時の「私」のことを「主体」というのだ。だから、「私」が「主体」となるためには「私」には「私の言動」を告発してくれる他者が必要だということだ。つまり、「私」と「他者」が「何かの共通の目標」に向かって行動していて、その「他者」が「私のいけない部分、誤解している部分」を「親切に容赦なく指摘してくれる」ということが前提になって初めて「私」は「主体」として行動し続ける必要条件が設定されるということだ。そして、その告発に対して否認せずに「徹底的に自己批判する」ことが十分条件ということだ。
そうか、彼等世代の言う主体性とはそういうことだったんだ。ということがよくわかった。
ということは、現代のように価値観がバラバラの時代に「主体的に生きる」というのは並大抵のことではないだろうことがはっきりとする。だって皆が別々の方向性を持つことが主体性だと信じているのが高度経済成長以降の我々の世代だから。わたし達が十分自分自身のユニークさを自覚して主体的だと信じているものがわたし達のオジさん世代の人には没主体的と見えて当然なんだな、ということである。
著者が主張するには、学生運動家がマイノリティーの立場の人から告発を受けたときに彼等にとっての主体的なあり方に決定的な変化が起きた。それが1968年であるという。だからその意味では1968年に「主体は死んだ」のかもしれない。
第二点:この本のおかげで戦後の思想史の概観がわかった。「あーそういうことだったんだ」とか「あーそう読むんだ」ということが理解できた。充実した読後感が持てた。
革命という名の否定神学、なのか?
本書について最低限評価すべきなのは、ベ平連の運動にソ連の存在が果たした役割を指摘し、小熊『<民主>と<愛国>』その他の抽象性を明らかにした点。鶴見や小田は神輿で、実体的にはレーニン流の「帝国主義戦争を内乱へ!」戦略の一環と考えられる。ベ平連とイラク反戦の対比は、市民運動の現在を考える上で重要。
68年が象徴する転回以降の「偽史」的想像力に着目し、吉本隆明『共同幻想論』をもその潮流に置いた上で、それを「歴史から虚構への転向」と論じる議論も、その後のサブカル系左翼族生との関係で興味深い。また、吉本の中野重治「村の家」評価を批判し、これを天皇制と宮本顕治的な非転向への従属と読む件りも刺激的。さらに「新左翼創成や60年安保を思想的にリードした黒田(革マル)と吉本(ブント叛旗派)」が華青闘告発に応接できなかった点で、両者は68年的たり得なかったという評価(p277)も、図式として発見的。
「内ゲバや爆弾闘争におけるシニカルな暴力革命主義は、80年代以降に全面開花した『アイロニズム』や『シニシズム』の、のりこえ不可能なリミット」(p288)という論定については、評価は分かれようが、私には説得的だった。
問題は、こうして示された袋小路状況における「希望」の所在。著者は「我々は既に革命を実現できる跳躍力を有していながら、眼下の谷に足が竦んで跳べないだけ」と示唆しつつ、安易に「跳ぶ」ことを諌め、「今できることは、(中略)われわれは谷を跳びうる潜勢力があると言い続けうるための、その力を養うこと(だけ)だろう」(p298)と苦く結語する(私などは、ここで立岩真也を想起した)。
しかしそれにしても、谷を超えた彼岸に何が待っているのだろうか?
伝統保守派の立場からこの本を読んだ
左翼の歴史というのは、安東仁兵衛の「私的 日本共産党秘史」のような左翼ボキャブラリーで書かれたものや森田実の「戦後左翼の秘密」のような1960年安保より前の転向者の著作があるが、この本のすが秀実のように、1970年当時20歳前後という世代の著作で一般人にもわかる語彙で書いている本は珍しい。新書ということもあり、一気に読んだ。
この本が扱っているのは全世界的に学生運動が盛り上がった68年だけではない。それ以前の60年安保、それより前の共産党の武装活動時代なども扱っている。それゆえに、戦後の左翼活動の歴史を読む上ではほぼ過不足がない網羅的な本である。
おもしろいのは新左翼トロツキストの人物として現在は陰謀論の本を出している太田龍のことを扱っていること。この太田竜の「偽史」やユダヤ陰謀論への傾斜のきっかけが1970年の7月にあった「7・7青華闘告発」という在日中国人=マイノリティに対する差別発言問題に端を発した、日本の左翼の日本のマイノリティに対する関心に由来すると指摘している部分は非常に個人的に納得のいくものだった。太田竜は、マイノリティを研究していくうちに、天皇制の歴史観が虚偽に満ちたものであると見いだし、そこに欧米国際金融資本との結託の事実を見たのだろう。だから太田龍の著作の日本柱が八切止夫のような独自流の日本史とそれと表裏をなす、ユダヤ・フリーメーソン・宇宙人を中心におく陰謀的歴史観なのである。
この太田竜の記述に関連して、三島由紀夫が自らUFO研究会に関わっていたという指摘がされている。戦前の大本教に対する関心は左翼・右翼に共通するものがあり、偽史への関心というのが、主流派言論人として活躍できるかどうかのメルクマールになっていたと言うことが分かる。(この点で吉本隆明は巧妙だったといえる)
一方の左翼トロツキストたちは、過激派になって自滅していくわけだが、大島渚が「日本の夜と霧」で描いたように、一番賢かったのは「安保自動承認」を受けてアメリカナイズされていった若者たちだろう。その時期に左翼の運動から足を洗わなかった人々は冷や飯を人生で食うことになったわけだから。
その上で言えば、左翼運動がやがてサブカルに回収されていくわけだが、ここまで来ると、日本のムーブメントは若者消費文化に主体が移っていく。その点でこの本を読んだ上で、堀井憲一郎の『若者殺しの時代』を読むと、戦後の日本の文化のあらましが全部見通せると思う。すが秀実は「一九六八年は大学が若者の就職安定所であることをやめた」と本書で書いており、その後大学は若者消費文化の象徴になったと卓見を示している。ここが堀井の新書のテーマにつながっていく結節点である。
ふたつの罠
刺激的で眠くなることはない本です。著者の68年論の続編。ここには管見するところ、ふたつの罠があるように思われます。まず、68年の多義性に突き動かされて続編を書いた、とあとがきにあるように、ここには端的にすべてを盛り込みすぎている。そしてすべての原点として、68年の特定のある一点を想定するために、著者が否定的に扱っているように見える「主体化論」をなぞってしまっている。二つ目は、言葉の問題として「68年の?」という表現が多く(特に前半)、それが著者のいう「転換」の実質なのか、「転換」以後の変化のことなのか区別できないということ。それにしても、細かい。
筑摩書房
思想としての全共闘世代 (ちくま新書) 安田講堂 1968‐1969 (中公新書) 1968 (知の攻略 思想読本) 1968―世界が揺れた年〈前編〉 (ヴィレッジブックス) 革命的な、あまりに革命的な―「1968年の革命」史論
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